SAN DIEGO (CALIFORNIA)

S.D.での奮闘記!今後の自分に関わる大きな動きがあった。






CALIFORNIA について


SAN DIEGO (CALIFORNIA)


新しいホストファミリーとの生活


ちょっと変わった学校生活


心機一転!再出発を兼ねたホストファミリーチェンジ




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カリフォルニアの時刻と気温













CALIFORNIA

カリフォルニア州





<成り立ち>
アメリカ合衆国で31番目の州(1850年9月9日)

<州名の由来>
スペインの探検家が、地上の天国と言われている架空の鳥の名からつけたことに由来。

<愛称>
Golden State(金の州)
1848年、サンフランシスコの近くで採掘作業をしていた1人の男が金を掘り当てた。
そのことはまたたく間に世界中に広まりった。
何万という人々がアメリカ中、メキシコ、オーストラリア、中国、フランス、イギリスなどから、
家族と仕事を捨て、金持ちになって帰ってくることだけを夢見て、カリフォルニアに続々と集まってきた。
これがかの有名なゴールドラッシュの始まりである。
人口数百人だったサンフランシスコがカリフォルニアの大都市へと急激な成長を遂げた。

<標語>
Eureka(我、発見せり)
ギリシャ語だが、もはや説明は必要ないでしょう。

<州都>
州都は Sacrament(サクラメント)
もとは農業地帯で、昔はゴールドラッシュで多くの開拓者を魅了したエルドラードだった。
オールド・サクラメントにはゴールドラッシュ時代の町並みが残り、観光客も多く訪れる。
近くにはワインで有名なナパバレーがあり、評判もなかなかのものらしい。

<交通>
ケーブルカー、バス、メトロなど、交通機関はかなり充実している。
市内のほぼ全域にわたって走っているのが、バス、トロリーである。
観光局やバス停で路線図を入手しておくと便利。
地下鉄は対岸のオークランド、バークレーに行くときに便利。
南部のサンディエゴも交通関係は充実している。
市内と郊外をカバーするサンディエゴ・トランジットバスは100以上の路線がある。
1日乗り放題の1日券$5がある。
さらにサンディエゴと言えば、真っ赤な車体が目印のサンディエゴ・トロリー。

<州民性>
約3,387万人←毎日変わるけどね・・・。(全米1位)
L.A.(ロサンゼルス)・・・約369万人(全米2位)
S.D.(サンディエゴ)・・・約122万人(全米7位)
割合は白人が47%、ヒスパニック系が32%、アジア系が11%、黒人が7%。

<面積>
約42万平方km(日本の約1.1倍)

<産業>
総生産は全米第1位、米国国民所得の約13%を占めている。
温暖な気候、肥沃な土壌、充実した灌漑施設による農業が有名。
シリコンバレーに代表される最先端を行く電子工業や、
航空宇宙関連産業を中心とする工業なども有名。

<気候>
半乾燥性亜熱帯に属し、年間を通じて快適な気候に恵まれている。
海岸地域は人口が集中している地域。気温差が少なく温暖。
朝夕に霧が出るところが多く、雨期も雨は少なく湿度も低いので快適。
砂漠地域は降水量は極端に少なく、温度差が激しいのが特徴。
渓谷地帯は夏期は湿度が低く温度が高い。冬期は逆に湿度が上がり温度が低くなる。
丘陵地帯は渓谷地帯によく似た気候だが降水量がやや多く霧が少ない。
山岳地帯はカリフォルニアの中で唯一降雪がある地帯。夏期はよく晴れて快適だが冬期は冷える。

<時間>
パシィフイック・タイム(PT)を採用。日本よりも17時間遅れになる。(夏時間は1時間繰り上げ)イースタン・タイム(ET)採用のニューヨーク、ワシントンよりも3時間遅れ。

<補足>
カリフォルニア州サンタモニカにはルート66の最終地点。



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SAN DIEGO (CALIFORNIA)

サンディエゴ カリフォルニア州





さて、新しいステイ先 San Diego(サンディエゴ)は耳にしたことがある人も多いと思う。

カリフォルニア州南部のメキシコとの国境付近に位置する大きな都市。

1年中半袖で過ごせるほど暖かい。

俺が到着したのは10月だったがそれでも海で泳げるほど暖かい。

俺は初めてボディボードに挑戦した。

なんとアザラシに触られたこともある。

街中にもメキシカンがちらほら見られた。

Spanish(スパニッシュ)を耳にすることもしばしば。

Indiana とは大違いだった。

日本人も多く、日本人むけのスーパーマーケットもあった。

値段は異常に高い。3倍ほどする物もあった。

もともと S.D.は物価が高いのもあるが・・・。

交通手段にもバスやトロリーがあって、定期券や切符を買う仕組みになっている。

初めの頃はどのバスがどこに行くのかを覚えるのが大変だった。

時間表をいくつもバッグに入れていつも携帯していた。

治安も前にいた Elkhart に比べると全然良く、

気候も温暖でかなり過ごしやすいところ。

とは、言っても1度ホームレスに絡まれたことがある。

ここで過ごした約2ヶ月は、今後の進路に大きく影響する。

考え方が大きく変わった時期でもあった。

詳しくはカリフォルニアについてへ。



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カリフォルニアの時刻と気温













新しいホストファミリーとの生活





ホストファミリーは前のに比べると天と地の差だった。

ホストファザーは相撲取りに見えるほどの巨体で、ホストマザーは美人な人だった。

映画「スピード」のヒロイン、サンドラ・ブロックに似ていて「美女と野獣」のいう言葉がぴったりだった。

さらに自分の弟たちより小さい子供が3人いた。元気いっぱいの男の子3人。

家はそんな小さな子供がいるとは思えないほどきれいに片付けられていた。

着いた時はここに来れて本当に良かったと心の中から思った。

このホストファミリーは前にも何度もホストファミリーをしていたらしい。しかも日本人ばっかり。

理由を聞くとホストマザーはこう言った。

「日本人は感謝の気持ちを忘れずに謙虚だからよ。日本人の子とはまだトラブった事が無いの」

トラブルを起こさないでねと言われてるような気がして、ちょっと気をつけなきゃと思った。

このホストマザーはかなりの潔癖症でもあった。子供が水を床にこぼしたらもう大変。

赤ワインを超高級絨毯にこぼしたようなリアクションで甲高い声で怒鳴っていた。

たかが水である。極端な話、放っといても蒸発する。色が残るわけでもないのに・・・。

家がめちゃくちゃきれいなのも納得である。しつけをきちんとしていると言うよりやり過ぎという感じだった。

子供たちは7時半には寝せられていた。好きなテレビも見れずに毎日12時間近く眠らされるなんて・・・。

そのため一緒に遊べるのは休日ぐらいで、あまり親しくなれなかったのが残念だった。

このホストファミリーは、AY●SA のプログラム外なので毎月ホストファミリーにお金を払わなくてはいけないらしい。

しかも、学校もプログラム外になるため授業料も余計に払わなくてはならない。

こんな事は説明会のときに話していなかったし、連絡の行き違いからこういう事が起きて、全く腑に落ちない。

十分にいい成績を取ったのに日本には全く逆の報告が行き、今回のようになってしまった。

しかも今回のプログラムに離脱して、かかった費用はおよそ100万円。

数日以内に払わないと即刻帰国と言われ泣く泣く払ったが・・・。

再度調べ直してください、もう少し様子を見てくださいなどのお願いも一切受け入れられなかった。

数日以内に100万円の入金を要求するなんて非営利団体とうたっている団体のすることとは思えない。

心の底から AY●SA を潰してやりたいと思った、いや思っている。

本当にあってはいけない事である。これから留学しようという人には俺は絶対に AY●SA は薦めない。

これ以上こんな思いをする人なんていらない。いや、いてはならない。

あくまで個人的な意見だが、AY●SA はとことんいい加減な留学団体だと思う。

今回の一件の末、俺が通うことになった学校は少し変わっている。

普通の高校生が通う学校とは全く違うシステムである。一般にいう学校ではなく塾に近い。

英語を母国語としない人たちが通う学校で科目はもちろん英語のみ。約2ヶ月間通うことになる。

2ヵ月後に英語が上達したかテストを行い、合格すればプログラムに復帰できる。

不合格だった場合は帰国することになるらしい。これにもビックリである。

出発前に AY●SA が行った留学するのに最低限必要な英語力をみるテストは何だったのだろうか?

出発前に1年間にかかる費用を払っているのに成績が悪いと帰国させる。しかも一切返金なし。

なんともいい加減な留学団体。もうこれには呆れて何も言う気にもならない。

愚痴はこのぐらいにしておこう。

AY●SA の愚痴を言い出したら俺が死んでも終わらないので・・・。

さて、着いたその日のうちにショッピングモールに行き、必要なものを備える。

学校はバスに揺られてはるばる1時間弱。ダウンタウンのど真ん中。バスの時刻表をもらい、定期券を購入。

ホストマザーによると、もう1人 AY●SA からの日本人留学生が同じ学校に通うらしい。

しかも、その子は、俺のホストファミリーの親戚の家に住んでいるらしい。

車で3分ほどの距離なのでモールの帰りに連れて行ってもらった。そこにいたのは、えつこという女の子。

俺は知らなかったが、えつこは東京でのオリエンテーションで見たことがあるというのだ。

えつこは、広島の子だった。俺と同じく納得の行く理由もないままプログラムを離脱させられた。

ある日、いつものように食後にニュースを見ていた。米中枢同時多発テロについてのものだった。

少しずつニュースの内容も分かるようになってきた。耳から英語を学ぶ。これはセイン・カミュの言葉だ。

英語はもちろんのこと、日本語やフランス語も話せるセイン・カミュ。

小さい頃から世界中を回りながら生活してきた彼が言うのだから間違いないだろう。

耳から学ぶからこそ時間がかかるのである。だから1年間留学することにした。

個人差があるんだから時間がかかってもいいはずである。ゆっくり個人のペースで英語を身につければいい。

始まって2ヶ月弱で英語力がないと言われる筋合いなどどこにもない。

実際にあって話したこともないのに本人の実力など分かるはずないのである。

留学する前に必要な最低限の英語力をはかるテストでもきちんと合格した。

Pre-AY●SA でも真ん中以上のクラスにいた。

学校でも留学生としては十分な成績を取った。


しかし、報告の内容は違った。

理不尽極まりない。

ニュースを見ていて、いつの間にか AY●SA のことを考えていた。

最近、ことあるごとに AY●SA のことが頭に浮かぶ。寝ても覚めても頭に浮かぶ。

俺は AY●SA が心底憎い。できることなら今すぐにでも訴え、潰してやりたいぐらいだ。

話は戻ってニュースを見ている時のこと。俺はここでも AY●SA に対する怒りを強めることになる。

ソファに座ってじっとニュースを聞き取ろうと耳を傾けていると、ホストマザーが隣に座った。

するとホストマザーが画面を指差し、「私たちは、ここから来たのよ」と口にした。

初めは何について話しているか理解できなかった。前は New York(ニューヨーク)に住んでたのかな?と思った。

画面に目をやると New York はすでに映っていなかった。

映っていたのは、オサマ・ビンラディンとアフガニスタンの映像だった。

ホストファミリーの両親はアフガニスタン周辺から来たと言うのだ。

「怖がらないでね。私たちは何もしないから。」その言葉に「はい」と答えることしかできなかった。

その後、ホストマザーとファザーはアラビア語を話せると言うことが分かった。

子供を怒鳴る時、英語に全く理解できない言語が混ざったりしていた。

さらに俺やえつこのことをえつこのホストファミリーと話すときもアラビア語を使っているようだ。

これは確証がないが、もしそうだとすれば感じ悪い話である。

幸い、ホストファミリーはアメリカで育っているため主に英語を話す。

もし、これで英語を第二言語とする家庭だったら最悪である。もしそうだったら AY●SA に文句を言っていただろう。

高い金払って英語をきちんと話せない家庭にホームステイしたら全く意味がない。

そんなことをしたら留学団体として確実に訴えられるのでしなかったのだろう。

このホストマザーはとてもしっかりした人で、ジャンクフードは体に悪いから、と毎日ご飯を作ってくれた。

これが何よりありがたかった。毎日お腹いっぱい食べられることをこれほど幸せだと思ったことはなかった。

まさに数ヶ月ぶりに味わう満腹感。おかわり!おかわり!の連続でホストマザーも驚いていた。

次の日、ホストマザーは「私たちの郷土料理を食べさせてあげるわ!」と笑顔でふるまってくれた。

出てきたのは今までに見たことも無い食べ物。ホストマザーは「これは日本でいうお米みたいなものよ」と一言。

言われてみれば、大きさもちょうどお米ぐらいの大きさで、ただ色と形が違うだけ。

口いっぱいにほおばった!が、味が無い。噛めば噛むほどゴムのような味がして全く口に合わなかった。

だが、ホストマザーの心遣いには感謝。

あの地獄のような家から一転して、天国のような生活。

でもプログラム外のホストファミリー。プログラム内のホストファミリーとは違う。

プログラム内のホストファミリーは無償で引き受けてくれる。

中には AY●SA から金を受け取っているのを見たという人や、

AY●SA に土下座されたから引き受けたと言われた人などもいるが・・・。

つまり他国の文化を学びたくて、無償で家族の一員として引き受けるのが原則なのである。

だからプログラム外のホストファミリーである彼らにとって俺は収入源。

お客様としてしか見られていなかったのである。

許可さえ取れば連続で外泊しても、一緒に夕飯を取らなくても、何をしても何も言われない。

嬉しい反面、疎外感も常にあった。

それでも初めのホストファミリーに比べれば格段によかったが・・・。



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カリフォルニアの時刻と気温













ちょっと変わった学校生活





初めて学校に行く日は少し緊張していた。

いきなり初日にテストがあると聞いていた。

えつこと一緒に行くよう言われていたのでバス停で待ち合わせ。

そして一緒にバスに乗り込んだ。

閑静な住宅街を抜けて、フリーウェイを通って・・・。

乗り過ごしたかなどと心配しながらバスに揺られて1時間近く。

今までとは打って変わって、活気のあるダウンタウンに出た。

ホストファミリーに渡された紙を見ながら学校の最寄のバス停で下車。

なんだか都会に出てきた田舎者のように目をキョロキョロさせてしまった。

道を行き来する車、忙しそうに歩く人々。

「魔女の宅急便」で、キキが初めて町に降り立ったような感じだった。

看板を注意深く見ながら目的地である学校を探す。学校の名前は INTRAX。

どこにあるのかと紙を見ると、その学校は World Trade Center の中にあるらしい。

ちょうど1ヶ月ほど前に飛行機が突っ込んで崩壊した、あの World Trade Center だ。

正直焦った。授業中に、ふと窓の外を見ると飛行機がなんて事を想像してしまった。

だが、どこにあるかなかなか分からない。仕方なく道行くおばさんに尋ねた。

おばさんの言った通りに進むとそれは、反対方向の道だった。

しばらく迷った後、ようやく目的地であるビルに到着。

早速中に入ると、高級なホテルを思わせるようなロビーだった。

エレベーターで INTRAX へ。

カウンターで新しい生徒です、と伝えると小さな部屋に連れて行かれた。

いきなりテストだ。俺とえつこの他に2人ほど一緒にテストを受ける人がいた。

両方とも年上だった。

さてテストも終わり、色々説明を受けることに。

そこに入ってきたのは、気さくそうな日焼けした日本人だった。

名前はカツさんというらしい。

教室と時間割をもらって驚いた。学校は9時から3時20分で、3つしか授業が無い。

次に教室に入ってまたビックリ。みんな年上だった。しかも日本人がめちゃくちゃ多い。

想像では、色んな国の人がいて日本人は俺とえつこぐらいかと思っていた。

ところが80%以上は日本人だった。先生も少し日本語が話せるほど。

しかも授業形式も少人数制で大きなテーブルをみんなで囲むというもの。

教室に入るとまずは、自己紹介。全然年が違う人に囲まれて変に緊張した。

自己紹介をした後、早速授業に。いきなりテスト。入った時期が悪かった・・・。

ちょうど一通り終わったところで20問ほどの確認テストがあるらしい。

カツさんに「現役高校生やしな!がんばりや!」と言われ、ますます緊張。

が、受けてみればなんと満点!ホッと胸を撫で下ろした。

Sue Ann(スー・アン)に上のクラスに変わっても問題ないと言われたが最後まで変えなかった。

この先生のクラスは活気に満ちていて人気も高かったからだ。

ここで、AY●SA 関連の紹介でも・・・。

俺とえつこは日本からの留学生。だが、AY●SA は色んな国にあるらしい。

ここで、出会った海外の AY●SA 生は、スペインとベネゼーラからの AY●SA 生。

スペインからの Pep(ペップ)とベネゼーラからの Hernan(エルナン)である。

俺とえつこを含めたこの4人が、学校で最年少だった。

上は定年退職された人まで年齢はバラバラだった。

ここの学校では、よく放課後にサッカーやバスケ、

週末にはフットボールなどアクティビティがたくさんあってとても楽しかった。

仲良くなった裕司は年が9つも違うのにいつも遊んだり買い物に行ったりしたし、

ヒロはよく家に招いてくれたり、

ようすけにぃやんもパーティーに呼んでくれたりと、

みんなこんなガキを相手にしてくれてホントに嬉しかった。

途中からビジネスイングリッシュのクラスを取ったけどなかなか難しかった。

「お前がボスだったらこんな時どうする?」と聞かれてもビジネスは未知の世界だし、

物の流れもよく分からなくて苦労した。

さて、そんなある日いつものように昼休みにご飯を食べていた。

すると見覚えのある後姿が・・・。

誰だろう?どっかで見たことあるなぁ・・・。

あ! Adely(アデリー)だ!懐かしい!約2ヶ月ぶりの再会である。

向こうも久しぶり!と言っていた。覚えてくれていたようだ。

とにかく、もう一生会うことも無いだろうと思っていた。

L.A.を発つときに交わした「See you later」の約束が実現したのだ。

そんなある日、その日もいい天気だった。

受付の人がニコニコの笑顔でこちらに向かってくる。

期待しながら笑顔で答えると彼女はテストの日付けを告げた。

この学校に来るということは英語力が不十分ということ。

絶対にそんなことはないはずだが、今さら騒いでも過ぎた話はどうにもならない。

とにかくこのテストに合格しなければいけないのだ。

ここでも、AY●SA について疑問が出てくる。

AY●SA は俺に電話でもし試験に落ちれば帰国してもらうと言っていたが、

他の AY●SA 生には、落ちたらもうしばらく INTRAX に通ってもらう、というものだった。


明らかにおかしくないだろうか?

何で俺だけ落ちたら帰国しなければならいんだ?

なんとも不平等な話である。

とにかく受かれば、問題なし。

そしてついに試験当日になってしまった。

いつもどおり1時間目の教室に行くがなんだか気が重い。

授業も集中できないし、昼飯も喉を通らない。

なんせ帰国というのが、肩に重くのしかかっていた。

そして放課後、その教室は INTRAX 内で唯一ガラス張りの部屋。

先生がブラインドを下ろした。

部屋の前の卓球台で遊ばれては困るのでラケットも隠した。

やることは全てやった。そしてテストは開始された。

時間ギリギリまで使って終わらせた。すぐに答案用紙は回収された。

待ってる間もみんなは励ましてくれたが、逆にそれが苦しかった。

Adely が出てきた。解答用紙を持っている。

始めに Adely えつこに一言。合格だった。

続いて俺の前へ。彼女はため息をついた。ダメだったのか・・・。

彼女は肩をポンッと軽くたたいて一言。合格。

こんなときにああいうジョークはやめてほしい。

4人全員合格!なんと、俺がトップだった。

これは裏話だが、実は Hernan はテストに受からなかった。

だが、先生達が点数を書き換えてあげたらしい。

さらに実はテストの前に俺のところに AY●SA から小包が届いた。

中には今度俺が受けるテストの過去問があった。

英語力の上達を目的にプログラムから勝手に離脱させ、

肝心のテストで過去問を渡したり、点数を書き換えたりするのはいかがなものか?

それなら初めからプログラムから離脱させる必要はなかったのではなかろうか?

AY●SA に対する不満と疑問は増えていくばかり。

どこまでもいい加減な留学団体である。

とにかく合格した今、俺には残された時間はあとわずか。

これから次のホストファミリーのところに行くまではしっかりと楽しもう。

バスケにサッカー、買い物と毎日飛び回って遊んだ。

みんなはこんな俺のためにパーティーまで開いてくれた。感謝感激である。

こうして俺の2ヶ月に及ぶプログラム外の生活は幕を閉じた。



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カリフォルニアの時刻と気温













心機一転!再出発を兼ねたホストファミリーチェンジ





ホストファミリーにも無事にテストに合格したということを告げた。

次のホストファミリーに行くまでは、あと2週間ほどある。

このときすでに12月に入っていた。S.D. に来て早くも2ヶ月がたった。

Pep はすでにワシントンに向けて発った。

えつこはカリフォルニアでも、前にいた場所に戻る。

はずだったが、次なるホストファミリーは慎太郎と同じ州に決定。

それはそう、アラスカ州である。

本人は嫌がっていたけど、留学とかでなければ行く機会が無いので少し羨ましかった。

オーロラや白夜など、一生のうちに是非1度は見てみたい。

だが、俺と Hernan はまだホストファミリーが決まっていない。

もう少しで出発なので焦りもあった。

2人で「きっと同じホストファミリーだぜ!」などと話していたが、

決まってみれば俺はインディアナ州に、 Hernan はニューヨーク州。

4人みんな北・西・中央・東とバラバラだった。

次のホストファミリーの住所まではまだ分かっていない。

俺は前のところにだけは戻りませんようにと毎日祈っていた。

さてそんなある日、俺はいつものように休み時間に卓球をしていた。

すると Adely がまたもニコニコの笑顔でやって来た。航空券の話だった。

クリスマス前に発つかクリスマス後に発つか俺が決めてもいいらしい。

なんてラッキーなんだ!みんなはもう出発の日が決まっているのに。

空席が残っているのでどちらでもいいと言われた。

新しいステイ先で知らない人とクリスマスを過ごすよりは、ここでみんなと過ごしたほうがいいし、

航空券の値段も$700(約92000円)と$400(約52000円)と大違いだった。

即断即決でクリスマス後に行くことにした。

S.D. で過ごせる残り少ない週末。

ホストファミリーはボーイスカウトで出掛けてしまったので何もすることが無い。

そこで、裕司カズとアウトレット(欠陥品の衣服を売るところ。どこが欠陥か分からないが)に行くことに。

裕司とオールドタウン(タウンと言ってもホントに何も無い。バス停が少しあるだけ)までバスで出て、

トロリーでカズがステイしているバンタジオ(寮の名前)に行き、

カズを加えてまたトロリーで延々と終点まで。

そこはアメリカとメキシコの国境線。

トロリーの乗客も終点に近づくに連れて人種が変わってきた。

終点の駅の目の前が国境線である。なんとなく治安も悪そうだった。

まず2人が言ったこと、それは「Curse(Fuck や Damn などの禁句を使うこと)は絶対にしないでくれよ!」だった。

俺だって危ないことぐらい分かっている。

駅から歩いてアウトレットまで行った。

とても12月とは思えないほどいい天気である。汗がたれてくる。

高速でも国境越えをできるので、車の数も多かった。

高速道路を跨ぐ歩道橋の上からはメキシコが見える。

日本からは隣の国がこんなに近くに見えないのでなんとも不思議な光景だった。

メキシコの国旗も見える。メキシコと考えると太陽が余計暑く感じた。

着いて始めにみんなが口にした言葉、それは「でかい!」だった。

とても1日じゃ見て回れない。想像を絶する大きさだった。とりあえずお目当ての店だけを回ることに。

地図をもらって探すがどこがどこだか全く分からない。

それもそのはず古い地図だった。

そんなものを配るなんてなんともアメリカらしい。

新しい地図を手に入れて、うろつきまくった。マジで疲れた。

そして帰りもまた延々とトロリーに揺られた。

そんなこんなで、丸一日かけた買い物はおしまい。

平和に過ぎていたある日、いつものように夕飯を食べ終わってくつろいでいると、ホストマザーが口を開いた。

「もうすぐホスト期間が終わるけどどうするの?」

はっ!?何それ!?

ホストする期間が出発の日と食い違っていたのである。

しかも、ここのホストファミリーはプログラムと違って別に料金を払わなくてはいけない。

それだけに向こうは留学生を家族の一員ではなく、収入源と考えているわけである。

この話を持ちかけられた時は、とても悲しかった。

やっぱり留学生としか見られていないんだなぁと痛感した。

とりあえず、「自分ひとりでは決めかねる問題なのでもう少し考えさせてくれ」と頼んで、その時は事なきを得た。

次の日、俺は授業の後サッカーをして、家に帰った。

ホストブラザー達とドラゴンボール Z を見ていると(アメリカでは日本の漫画が大人気!高校生でも見ている)

ホストファザーに呼ばれた。AY●SA から電話らしい。

出てみればアメリカの本部からだった。何かヤバイ事でもしたっけな?

と、ドキドキしながら電話に出ると、話は次のホストファミリーについてらしい。

相手は Eli●abeth(エリ●ベス・仮名)という人だった。

この人は俺たちが春のオリエンテーションに行った時、困ったことがあったら私に電話しなさいと言っていた。

結果から先に言うと次は違うホストファミリーらしい。ホッと胸を撫で下ろした。

だが、ここで思いもよらないことを言われた。出発の日はクリスマスイヴの前日だというのだ。

そんな馬鹿な・・・。

俺は確かにクリスマス後って言ったのに。すかさず反論、すると訳分からないことを言い出した。

「それなら$700の方をキャンセルして料金払ってから$400の方を買え」などとほざいてきた。

俺は「俺は確かにクリスマス後に発つって言ったんだ」

そして「勝手に航空券を買う前に、何で電話をしてくれなかったんだ?」と問いただした。

返す言葉が無かったのだろう、しばらく無言だった。

そしていきなり「クリスマス前に$700で行く?」

「それともキャンセルして$700払ってから新たに$400で買うか、どっちにするの?」と聞いてきた。

「まずは、俺の質問に答えてください」と言うと、電話を一方的に切られた。

あきれて何も言えなかった。AY●SA にはほとほと呆れた。

留学生を預かる留学機関がこんなことをしていいのだろうか?

俺の意思とは違う航空券を買ったり、質問にも答えず、挙句の果てに電話を一方的に切る。

こんなことは留学機関だけに当てはまらず、あるまじき行為である。

こんなトラブル続きでは、俺が AY●SA を嫌うのも無理はないと思う。むしろ当然のことである。

相手は Eli●abeth(仮名)という人だった。

もっと早く電話するのが普通ではなかろうか?

仕方なく荷造りに取り掛かった。家に体重計が無かったので、借りに行って大急ぎでスーツケースに詰めた。

もちろん入らない・・・。始めは送るつもりだったが、もうそんな時間もない。

始めはもう1週間ほどステイする予定だったので、余裕で間に合うはずだったが・・・。

とにかく明日でホスト期間は終わってしまう。出発までたった一晩だった。

AY●SA のミスだろう。滞在期間がずれている。

Hernan もホストファミリーともめたらしくバンタジオに泊まることに。

早速、美穂の電話番号を友達に聞いて電話。

パシリのように使ってしまい申し訳なかったが快く引き受けてくれて迎えに来てもらうことになった。

ついでに入りきらなかった荷物はバンタジオから送ってもらうことにした。

約束の時間にガソリンスタンドの前までホストマザーに送ってもらった。

しかし、美穂はいっこうに来ない。一時間過ぎても来ない。

すでに10時を回っていた。

12時になっても来ない。道に迷ってるんだろうなぁなどと考えていると、

ホストマザーは驚愕の言葉を口にした。

「12時過ぎて私たちのホストファミリーとしての役目はおしまいね。それじゃ、気をつけてね」

そう言い残すと帰ってしまった。

結局ホストファザーにもホストブラザー達とも顔を合わせることなく別れたことになる。

何とも悲しいお別れである。朝起きると「あれ?あの留学生は?」って感じで・・・。

やはり留学生は留学生であって収入源の1つとしか考えていないようだ。

S.D. はまだ治安がいいとはいえ、銃が存在するアメリカである。

真夜中に1人でスーツケースとスポーツバッグを抱えて1人で待つ。

これはかなり危ないことである。

何台か車が止まって、「送ってあげようか」と声をかけられたが、とんでもない。

ちょっとヤンキー風の人に声をかけられた時は、天国まで送られるんじゃないかと正直思った。

しばらくしてようやく美穂が登場。 Hernan も乗っていた。

美穂に電話でしっかり説明したのに、間違えたらしい。

結局 Hernan が案内役になってガソリンスタンドまで導いてくれた。

明日の出発はものすごく早い。5時半には空港に着いていなければならない。

だが、バンタジオに着いたときは、すでに3時。寝ずに朝を待つことに。

INTRAX で一番仲の良かった裕司がたまたまバンタジオに泊まりに来ていたので運良く最後に会うことができた。

何しろ急に決まったことなのでもちろん裕司はこのことを知らなかった。

急に出発が決まり、なんとも後味の悪い最後の夜になった。そしてすぐに出発の時間。

美穂の小さな車に俺と Hernan のスーツケースを載せて、俺と Hernan が乗り込んだ。

運転手の美穂がいることは言うまでも無いだろう。

裕司は見送りには来てくれたが車には乗らなかった。

裕司は最後に「すぐに会えることを信じてるから、俺は行かない」と茶髪ロン毛らしいクサいセリフを残した。

最後に握手して車に乗り込む。そして車は走り出した。

空港までの道のり、誰も話さなかった。

沈黙が車内を制していた。

そんな状況とは裏腹に外から入ってくる風は、とても心地よかった。

空港にはすでにたくさんの人たちがいた。早速列に並んで手配を済ませる。

あのテロ以降チェックは一段と厳しくなっている。

特にクリスマスイヴの前日とあって、大きなプレゼントを持っている人も大勢いた。

しかし、検査官は容赦なくその包装紙を開いた。

あのおじいさんとおばあさんは、きっと孫のためにプレゼントを用意したんだろう。

そしてかわいい孫たちとクリスマスを過ごそうと空港に来たに違いない。

だが、包装紙は無残にも破かれ、箱は開けられ中身までも全てチェックされていた。

感傷的になっていたせいもあってか、とても複雑な思いだった。

とは、言ったものの俺に対しても同じことである。スーツケースは開けられ全てチェックされた。

しかもみんなが並んでいる列の目の前でシャツの一枚からトランクス一枚まで全てをチェックされた。

プライバシーも何もあったもんじゃない。

真面目そうな中年の男が手袋をして真顔でトランクスをチェックしている姿にみんな笑いを抑えられないようだ。

こっちまで恥ずかしくなってくる。おまけにギュウギュウに詰め込んだスーツケースは閉まらなくなった。

「はい、次の人」

仕方なくチェックしている横で全て荷物を出して、初めから詰めなおしである。

ホントに恥ずかしいったらありゃしない。ようやくつめ終わりカウンターへ。

ここで、本当のお別れである。ここより先は航空券が無いと入れないのである。

最後に裕司に会えたとは言え、ようすけにぃやんヒロなど、まともにお別れも言えずに来てしまった。

悔いが残る出発である。が、その時、向こうの人影に見覚えのある髪型が。

本当にグッドタイミングだった。なんと、ようすけにぃやんが見送りに来てくれたのだ。

あの大きな S.D. の空港で場所の約束無しに会えるなんて奇跡である。

しかも、出発ギリギリのところで。もう自分たちの前には2人しかいなかったのだ。

その時のことは今でもしっかりと脳裏に焼きついている。本当に奇跡的だった。

そしてみんなと抱擁を交わして、S.D. を後にした。

時は経ち、乗り継ぎの空港に着いた。

ここで Hernan ともお別れである。多分一生会うことも無いだろう。

悲しいことだが、正直そう思った。お互いの住所も知らずに会うことはまず不可能である。

この留学の後はそれぞれの国に帰るわけである。そうなったら会うどころか連絡を取り合うことで精一杯であろう。

Hernan とも抱擁を交わして別々のゲートへ。

ここで、俺は寝てないのもあってかソファに座ると同時に眠りの中へ落ちていった。

気付けばすでに2時間が経っている。すでに飛行機は雲の向こう。

と、思ったが出発が遅れているらしくまだ出発していなかった。

ホッと胸を撫で下ろした。本当によかった。

もう少しで金さんの二の舞を踏むとこだった。

飛行機に乗り込み今度こそ安心して深い眠りについた。目が覚めるとそこはすでにインディアナ州。

Pre-AY●SA の CA(カリフォルニア)から IN(インディアナ)、その後 S.D. のある CA に行き、またINに戻ってきたのだ。

すでに時計の針は9時を回っていた。S.D. の時と同様、ホストファミリーの顔も名前も知らない。

またも AY●SA のいい加減な情報管理体制が露呈された形となった。

向こうから声をかけてこない限り会うことは無い。

うろつかずにソファに腰を下ろして待っていた。

すでに人々はいなくなりがらんとした空港にまた1人になった。

ミネソタ空港と同じ状況になるか?と焦りだした頃、声をかけてくる大男がいた。

この人が新しいホストファミリーか、と思えばそうじゃないらしい。AY●SA の CR の人だった。

どうやらホストファミリーのところまで送ってくれるらしい。ホストファミリーは都合で来れないと言っていた。

ドイツからの留学生が2人いた。車の中では、あまりたいした話はしなかったが。

新しいホストファミリーの家に到着して、CR に別れを告げた。

家の中に入るとクリスマスのデコレーションで綺麗に飾られていた。

新たな土地で、心機一転再出発である。



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