ELKHART (INDIANA)

初めてのホストファミリー。不安と期待の毎日だった。






INDIANA について


ELKHART (INDIANA)


初めてのホストファミリーとの生活


波乱万丈の学校生活


初めてのホストファミリーチェンジ




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インディアナの時刻と気温













INDIANA

インディアナ州





<成り立ち>
アメリカ合衆国で19番目の州(1816年12月11日)

<州名の由来>
ラテン語で「インディアンの地」の意味。1800年に合衆国議会がオハイオ州を、北西領土から独立させた際、
残る領土を「インディアナ領」と呼んだことに由来。

<愛称>
Hoosier(フージャー:生真面目な働き者、無骨者)語源には30以上の説がある。
開拓時代にドアのノックに対し「Who's yere?」と応えた習慣から。
LouisvilleのPortland Canal を建設する際に、Samuel Hoosier という人足頭の元に労働者が集まったことから。
などなど・・・。

<標語>
The Crossroads of America(アメリカの十字路) 1937年〜
理由は当時、最も人口が多かったかららしい。水陸空の交通網が整備されている。
東部の人々はセントルイスや西部を、南部の人々は北部のシカゴやミシガンを目指した。
実際、開拓者が旅した「Old National Road」はインディアナ州を横断している。
↑現在の U.S.40(Greenfield の家から100mのところ!)
この標語は、ナンバープレートにも入っている。
全米最大手の運送会社の5社が、ここに本社を置くほどである。全ての道はインディアナに通じる。

<州都>
州都は Indianapolis(インディアナポリス)で、あの有名なインディ500の開催地である。
この世界最大のカーレースはアメリカ3大イベントの1つ。
5月になると世界中からファンが押し寄せてくる。

<交通>
・ハイウェイ
インディアナ州には、最も多い7本の州際ハイウェイがある(1137マイル=1825km)。
うち、5本が東西、2本が南北に走っていて、太平洋〜大西洋、さらには、カナダ〜メキシコ湾まで結んでいる。
ワシントンD.C.をモデルにした、4本のハイウェイが、インディアナポリスから放射状に延び、
2日〜3日で国内のどんな目的地でも到着することができる。
全米の人口の65%が625マイル(約1000km=車で1日)以内に住んでいる。

・空港
航空輸送で全米7位。680もの空港施設があり、そのうち最大のものは、インディアナポリス国際空港。
1日旅客機200便、貨物専用機50便が離発着している。

・鉄道
アメリカで最も鉄道が集中している。
五大湖及びオハイオ州の港、ミシシッピ川や東海岸の深喫水の港にも接続している。

・長距離バス
シカゴ、シンシナティ、セントルイスへ向かうなら、飛行機より安く速い。(24時間営業)

・国際湾岸施設
インディアナの3つの湾岸施設が世界市場に直結している。
全米人口の40%以上が在住する22州を結ぶ「米国内水路システム」に一年中アクセスできる。

<州民性>
勤勉で堅実。愛称が示すとおり素朴・・・・なはずだが、俺はそうは思わん!人間中身はほぼ同じ!

<人口>
5,942,901人←毎日変わってるけどね・・・。(全米14位)
州都インディアナポリス・・・810,946人
人口密度は 59人/1平方キロメートル

<面積>
94,328平方km(全米38位、南北440km、東西230km)これは、日本の約1/4強。
都市と農村の人口比は、64%:36%。

<産業>
自動車製造、鉄鋼業などの工業、大豆、トウモロコシなどの農業のバランスがとれている。
インディアナポリスの再開発の目玉は鉄道ターミナル。
シカゴ、ゲイリーなどの町からの輸送の中継地点だった、ユニオン・ステーションは、車社会に変わってしまった。
今は、すっかり陰が薄くなり、町の景観を損ねるただの古い駅という存在だった。
1980年代、ちょうど再開発に燃えていたインディアナポリスではこの駅に目をつけた。
市民の集まる場所にしようという大計画を進めることにした。
古い駅舎と最新のショッピング・センターというミスマッチは大成功。
現在ではサンフランシスコのチョコレート工場跡にできたギラデリ・スクエアと肩を並べるほど。
再開発によって生まれ変わったショッピング・センターとして全米に名前を知られる存在になったのだ。

<気候>
湿潤性大陸気候に属し、明確な四季はあるものの、春と秋は短く、寒暖の差がとても大きい。
天気も変わりやすく、とても過ごしにくい。(最高−25度〜40度近くまで約65度の差がある。)

<時間>
インディアナ州は二つの時間帯に属す。
北西部と南西部の11郡は中央標準時に、それ以外の81郡は東部標準時に属している。
日本とはそれぞれ15時間・14時間の時差がある。(日本が正午ならば、インディアナ州の大半は夜の10時)
なお、夏時間は、ほとんどの地域で採用されていない。

<補足>
州都のインディアナポリスは働きたい・住みたい都市全米第2位。
インディアナポリスは全米で人口50万人以上の都市中6番目に犯罪発生率が低い。
Amish(アーミッシュ)の村がある。
アーミッシュとは電気・ガスなどを一切使わず、食料は自給自足の人々。
さらに移動は馬車、言葉は古いドイツ語と英語の混ざった言葉を話す。



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ELKHART (INDIANA)

エルクハート インディアナ州





Indiana (インディアナ)州の Elkhart(エルクハート)。俺の最初のホストファミリーがいる町。

Indiana 州の最北端に位置し、シカゴとデトロイトのちょうど中間あたりにある。

South-Bend(サウスベンド)の隣の小さな小さな町。

俺はここ Elkhart で信じられないぐらい過酷な生活を送る。

Elkhart の名前の由来は大きく分けて2つ。

Elk とはヘラジカという大型の鹿の一種で、Hart は雄ジカという意味。

もう1つの説は、心臓を意味する Heart がなまって Hart になったというもの。

どちらにしろ大したことではないが俺は結構この町の名前が気に入っていた。

ここ、Elkhart は黒人の占める割合が非常に高い。

当然の如く俺のホストファミリーも黒人だった。

バスケの選手、ラッパー、DJ・・・俺の中での黒人のイメージ。

勝手なイメージではあるが結構憧れていたのも確かだった。

俺がステイした家は Indiana Ave. にある一軒家。

驚いたことに数百メートルあるこの道沿いには黒人しか住んでいなかった。

様々な人種がいると思っていたのにどこを見ても黒人、黒人、黒人で正直焦った。

いきなりカルチャーショックだ。

黒人は基本的にひょうきんでお調子者、悪い言い方をすれば失礼とも言えるが・・・。

Indiana Ave. を歩いていると日本人の俺は目だってしょうがない。

「Hey yo! What's up, man?(よ!調子はどうだい?)」

なんて感じで学校帰りに近所の見知らぬ黒人に肩を組まれることもしばしば。

最初は怖くて仕方なかったが、慣れてくると普通に会話するようになった。

日本ではありえない光景だがこんな感じですぐに近所の人と打ち解けた。

この町はアメリカ五大湖の南部に位置しているため、天候の変化が著しい。

夏は湿度が高く蒸し暑く、冬は吹き抜ける風がとてつもなく冷たい。

平均気温も夏は40度近くから、冬はマイナス20度にもなるらしい。

俺はステイ先希望欄に「天候がよく治安のいいところ」と書いたのだが、

全くの逆であった。

天候に関しても逆だが、治安に関しても逆。

Indiana 州はアメリカの中でも天候の変化が激しい。

さらに Elkhart は最高に治安が悪い。

アメリカで最も犯罪発生率の高い Gary(ゲイリー)と同じ州北部である。

町の治安は窓を目安にするとよい。

窓に鉄格子がついていると治安が結構悪い。

ちなみに俺の家の全ての窓には鉄格子がついていた。

2階の窓もトイレの窓もありとあらゆる窓に。

話によると窓から強盗が入ってくるかららしい。

昼夜を問わずひっきりなしにパトカーが家の前を通る。

夜には銃声を聞くこともしばしば。

そんな時、ホストファミリーに言われたのは「窓のそばに立つな!」だけ。

ベッドの中でおびえる夜も少なくなかった。

Elkhart の中でも Indiana Ave. は特に危険らしい。

そのためか買い物に行くには1番近いが車がなかなか通らない。

スクールバスもわざわざ遠回りするほどである。

俺の前にステイしていた留学生は真昼間にスリにあったらしい。

そのため、俺は1人の時は庭に出ることも禁じられていた。

よく AY●SA はこんな危険なところに留学生を送ったものである。

留学先の州を先に決定してからホストファミリーを探すのではなく、

ホストファミリーを募集して、それに合わせて留学生を送るべきだと思う。

余談だが慎太郎もカリフォルニアって書いて逆の気候のアラスカに行った。

希望を叶える気がないのなら初めから聞かなければいいのに・・・。

先行きはかなり不安だったがこの小さな町から俺の留学生活は始まった。

詳しくはインディアナについてへ。



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インディアナの時刻と気温













初めてのホストファミリーとの生活





初めての海外生活。毎日が新鮮だった。イヤな面も含めて・・・。

初めは言葉が思うように伝わらなくて困った。習っていた英語が全く伝わらない。

言いたいことは山ほどあるのに、うまく伝えることができない。もどかしい時が何度もあった。

「アメリカではこういうものなんだ」と思っていた部分も多かったが、それは間違いだったようだ。

何より家族構成が複雑だった。ホストファザーとマザーには7人の子供がいる。

そのうち4人はどこにいるか知らないらしい。なんという家族だろうか。

俺がついた時、1人アラスカ州の大学から実家に帰って来ていたホストブラザーがいた。

さらに2人のホストシスターがいた。この2人と俺との関係は伯父と姪になる。

ホストブラザーの兄弟の子供らしい。しかも、2人は本当の姉妹ではない。

近くに本当の両親が住んでいるのに、わざわざ祖父母の家で生活している。

のっけから複雑で何とも分かりにくく怪しい家族構成だ。いきなり不安になった。

帰省中のホストブラザーは超がつくほどの夜行性。しかもかなりの廃人。

みんなが寝ている間はパソコンの前につきっきりであった。そしてみんなが起きてくる朝に就寝。

起きるのは夕方頃である。起きてくると歯磨きや朝食の前にパソコン。

おなかがすいてくるとジャンクフードや冷凍食品で済ませてまたパソコン。

そんなパソコンとベッドを往復するだけの日々を過ごしていた。

休みの日だけではない。平日も同じである。仕事もしない。

俺が学校に行く時に寝る、俺が帰宅すると起きて、また次の朝までパソコン。

事実、俺が始めて家に着いた時もそうだった。あれは夜中の2時。夜中なのでゆっくりと家に入った。

そこにはパソコンの前に座っている彼の姿が。留学生が来たにも関わらず椅子から立ち上がることもなかった。

振り向いて「ハイ」と一言。終了。すぐさま向きを変えてまたパソコンに熱中。

俺はてっきり仕事中かと思ったほどだ。主にやっていることはダウンロードとチャット、IM である。

そして何と言っても、この初めてのホストファミリーはとにかく家が汚い。

洗濯はあまりしないし、服は替えない。風呂に入らない日もあった。それも連続で。

俺が風呂に入ろうとすると「今日はまだ汚れてないから入らなくていい」と言われた。

8月も真っ只中。毎日汗だくになるのに風呂に入れないのは、とても気持ち悪かった。

そして、俺に対してかなりの制約があった。

夜中までには寝なさいと言うならまだしも、夜9時までには寝なさいとはいかがなものか。

俺は当時16歳。いくらなんでも9時は早すぎると思うが・・・。

学校の催し物があり Mike が誘ってくれたが行かせてもらえなかった。

その理由は帰りが遅くなるから。学校の催し物である。終わる時刻は午後6時前後である。

こんなのはまだ序の口。まだまだある。次に食生活。食事がなかなか出てこなくてひもじい思いをした。

「おなかのすいた時に勝手に食べていいわよ」と言われ大喜び。

勇んで冷蔵庫を開けると中のものはカビが生えていたり、腐っていたり。

初めの1ヶ月で体重が7kg落ちた。

とうとう我慢も限界になって、お願いするとすぐに解決してくれた・・・かのように思われた。

渡されたのは両手に収まるほどの大きさ(小ささ?)のプレートの冷凍食品。

何もないよりはマシだが、全く物足りなかった。当然だ。

朝はシリアル。昼は自腹。夜は200〜300カロリーほどの冷凍食品を1つ。

家族みんながボーリングに行くときも、俺は留守番で、みんなは外食してくる。

そして俺はお約束どおりの冷凍食品。しかも毎回同じもの。うんざりだった。

結果から言うとこの家に滞在した2ヶ月弱で手料理が出たのは3回ほど。しかも同じメニューで1品のみ。

さらに不幸なことに俺は誕生日をこの家で迎えてしまう。俺の思い描くアメリカの誕生日パーティーとは・・・

家族が食卓を囲み、家族団らんでおいしい食事をして、食後には楽しいゲーム。

そして極めつけはお約束の誕生日プレゼント。

ところがそんな夢物語は早くも崩れ去った。この家では食卓が囲めないのである。

なぜなら食卓の上にはあろうことか靴下や靴、着た服などが散乱しているから。

食事はいつも全員時間がバラバラで床の上で食べていた。小さい姉妹もそれに疑問を感じていない。

それでも16歳だった俺はわずかな期待にかけていた。朝起きるとすでに17歳。

朝起きて元気に「グッモォーニンッ!」と挨拶。ところがみんなはまだ就寝中。

起きているのはパソコンフリークのホストブラザーのみ。向こうも「グッドモーニン」と言っただけ。

いきなり肩透かしをくらった気分だ。じきにホストマザーが起きてきた。

書類が先に送られていたので知っていた。「ハッピィバースディ」と言われ、崩れかけた希望が再び燃え上がる。

時は経ち、時刻は午後5時。何もモーションを起こさないので心配しているとその時がきた。

ホストマザーが口にした言葉とは・・・

「みんなでボーリングに行くから留守番お願いね。夕飯はいつものが冷凍庫に入ってるから」

家族全員でボーリングに出かけ、外食。俺は留守番しながら冷凍食品。本気で落胆。マジで失望。超ブルー。

その数日後、今度は俺もボーリングに連れて行ってくれた。実は俺はボーリング未経験。

ものすごく楽しみにしていた。ところが俺は駐車場で留守番。しかも3時間も。

もう少しでアメリカの家庭はどこもこんなものだと認識するところだった。

さらに、この家にはハエやゴキブリ、ねずみが家の中にたくさんいた。

ステイしていた2ヶ月弱の間に、ゴキブリを30匹以上殺した。

寝ていると足からスーっと何かが入ってくる。そこには見たこともない大きなゴキブリの姿が。

コソコソと動き回ってはいるものの、大きさが大きさだけにコソコソには見えない。

さらにねずみも10匹以上見た。ホントに不衛生だった。

食器棚の中やオーブンの中、ありとあらゆるところで見つけた。

オーブンの中で見つけた時、ホストマザーに知らせると、驚愕の言葉を口にした。

「焼けば死ぬわ」そう言ってピザを投入。そのままスイッチオン。

俺はさすがに食えなかった。ある日、地下室へ行くと異様な匂いが漂っていた。

その地下室は普通想像する地下室とは違い、どちらかというと洞窟という感じだった。

ドラクエを彷彿させるその洞窟地下室にはイメージにぴったりの裸電球が1つあるだけ。

クモの巣が点在し、足元には虫が這いつくばり、一面が土のままの壁もあった。

洞窟だけならドラクエを思わせ、まだ冒険心が湧いてくるのだが・・・。

さらに虫も加わるとインディージョーンズの虫の洞窟に近いものがあり背中に寒気が走った。

さて、異様なにおいの正体を確かめようと、電球のスイッチをオン。するとそこには想像を絶するモノがあった。

ねずみの死体にゴキブリがたかって、黒い塊と化していた。

一見しただけではねずみには見えず、黒光りする大きな塊であった。

電球に反応したゴキブリはすかさず四方八方に逃げていった。

あれだけの大量のゴキブリに足の上を通過されたのはもちろん初めてだった。

もちろん片付けるのは・・・俺。ビニール袋に手を入れて、恐る恐る近づく。

すると残っていたゴキブリがサーッと逃げ出す。もう臭いとその光景で吐き気を抑えるのに必死。

そしてあばら骨を剥き出しにして、無残な姿になったねずみをつかんだ。

冷たくてやわらかい感触がビニールを通して伝わってくる。

するとあばら骨の中から逃げ遅れたゴキブリが出てきた。もう悪夢だった。

この頃ホストファミリーに対する不満や怒りはすでに限界点を越えていた。

言葉遣いも汚かった。俺自身言葉遣いが綺麗とは言えないが・・・。

悪い言葉でも面白い言葉と人をけなす言葉があると思う。ホストファミリーのはもちろん後者。

俺の友達から電話があると Bitch と呼んだり、自分の子供や俺に対してもひどい言葉遣いだった。

「Get your motherfuckin' ass!」とか「Give me goddamn key!」とか。

さらに、日が経つごとに俺の仕事量は比例して増えていった。

風呂掃除(俺は使っていない方の風呂も)、トイレ掃除、食器洗いを始め、

犬のエサやり、糞の掃除、リビングの掃除、食器棚の片付け、

そして極めつけは買い物袋の片付け、整理まで。
自分達が買い物から帰ってくると俺に車のキーを渡してくる。

俺は車庫まで行って、車から買い物袋を運んでくる。そして買ったものをそれぞれの棚などにしまっていく。

俺とは全く関係のないものまで全て俺に片付けさせる。その間、自分はソファーにふんぞり返ってテレビ鑑賞。

留学生をメイドや奴隷と勘違いしているのではなかろうか?さらに俺は見てはいけないものを目にしてしまう。

この件についてはしっかりとした証拠がないのでなんとも言えないが・・・。

CR の Lin●a Tunks(仮名)がホストファミリーに現金を渡している現場を目撃してしまった。

ホストファミリーは無償で引き受けてくれると聞いていたが・・・。

前にお金を借りていたんだろ、と思った人もいるかもしれない。

だが、家から Lin●a Tunks(仮名)の家までは離れていて、今までに1、2回しか会っていない。

1、2回しか会っていないのにお金を貸し借りしたとは考えにくい。

さらに俺に書類を取りに2階に行かせてる間に渡していたあたり特に怪しい。

他の AY●SA 生にもホストファミリーに現金を渡すところを見た人や、

ホストファミリーにあなたを引き取ったのは AY●SA の人に土下座されたからなのと言われた人など様々。

AY●SA のパンフには「厳選された適当なホストファミリー」と書いてあったが・・・。

俺は1番初めのホストファミリーに対していい思い出はひとつもない。



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インディアナの時刻と気温













波乱万丈の学校生活





ホストマザーに連れられて Elkhar Central High School という高校へ。

かなり緊張したのを覚えている。ガチガチに固まっていた。

科目選択だがどんな科目があるのかも知らされておらず、

これはなんだか勝手に選択されたという感がある。

とりあえず英語(日本でいう国語)に歴史、数学を始め、

P.E.(体育)、美術、コンピュータ(設計)、生物の7科目を選択した。

体育を選択したわけは好きなのはもちろん、毎日風呂に入れるようになるからである。

ここは、1日7科目というスケジュールだった。

英語、歴史、コンピュータ、生物は難しかった。

だが数学、P.E.、美術は簡単だった。

特に数学はスクールカウンセラーに勧められて取った1番簡単なクラス。

宿題に時間をとられなくて助かった。

授業内容は高校生なのに、定規で辺の長さを測ったり、

分度器を使ったり、四則混合の計算でビックリした。

生物のクラスで Mike(マイク)という奴と友達になった。

アメリカでの最初の友達である。 Mike から段々と友達の輪が広がっていった。

ある日コンピュータのクラスの友達に信じられない話を聞いた。

英語と歴史の先生はアジア人が嫌いだというのだ。

しかも歴史の先生は学校でも強い権力を持っているから気をつけろと言われた。

彼の両親は中国人だが、彼はアメリカで生まれたため英語を喋る。

しかし、その2人の先生には差別を受けたらしい。

さて実際その話しが現実に。その2人は仲もよく、合同で授業することもしばしば・・・。

そうなるともう最悪であった。

プリントを配るにしろ何にしろ、明らかに差別的な態度をとるのである。

ワークシートに違うスコアをつけられた事もあった。

しかも1度や2度ではない。これには本当に頭にきた。

その日は、9月11日。当然いつものように学校へ行く。

体育の授業を受けていると、急に頭がフラフラしてその場にぶっ倒れてしまった。

後で分かったが、原因は栄養失調らしい。

ホストファミリーはほとんど何も食べさせてくれなかったのが原因である。

保健室に運ばれてベッドで休んでいると、急に学校が騒がしくなった。

何があったのか訳も分からずにいると、保健室の先生がテレビをつけてくれた。

そこに映っていたのはニューヨークの光景。でも、雰囲気がどこかおかしい。

次の瞬間画面が変わって、一瞬声を失った。

WTC に飛行機が突っ込む瞬間の映像だった。

まるで映画のような映像に初めは現実味を感じなかった。

その直後、2機目がビルに吸い込まれていった。

一瞬の出来事だった。ニューヨークの象徴でもある WTC が崩れ落ちた。

その日、アメリカ全土、いや、全世界が震撼した。

さてアメリカというとみんなフレンドリーというイメージがあるが、

黒人や中国人、ゲイなどに対する差別が根強く残っている。

アメリカ人は、何でも自分達が1番だと思っている。

自分達が1番賢い、自分達が1番普通、自分達が世界の中心といった考え方である。

こういう考え方は改めたほうがいいと思う。

生活面では英語があまり理解できずにかなり苦労した。

毎日宿題を終わらせるのが精一杯で、毎日3時間程度しか眠れなかった。

しかし、友達ができてくると学校生活も楽しくなった。

放課後に友達とフットボールの試合を見に行ったりした。

ようやく学校にも慣れ、友達も増えて学校生活は順調に進むかのように見えた。



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インディアナの時刻と気温













初めてのホストファミリーチェンジ





きっかけは1通のメールからだった。

春のオリテで一緒だったトウセイ(仮名)からメールが着た。

俺は奴隷のような生活の中、パソコンに向かう時間が長くなっていた。

家族と話せばあれをやれ、これをやれと言われるからパソコンに向かっていた。

友達とメールしている時間は心がなごみ、笑顔でいることができた。

そんな時、トウセイ(仮名)は英語でメールしようと言ってきた。英語の勉強にもなるからいいことである。

だが、彼が英語でメールしようと言うのには裏があったようだ。

生活はどんな感じだ?と聞かれ、慣れない英語でこんなことを書いた。

ホストファミリーは人をバカにする英語(Curse)ばっかり使うし、

飯もまともに食わせてくれない、家事のほとんどをやらされて本当に散々だ、と。

すると数日後、CR の Lin●a Tunks(リン●タンクス・仮名)が家にやって来た。

俺と話があると近くのマクドナルドへ連れて行かれた。そして1枚の紙を渡された。

なんか見覚えのある文面。そう、俺のトウセイ(仮名)に宛てたメールがプリントアウトされていた。

トウセイ(仮名)のホストファミリーはその地域の CR で、トウセイ(仮名)は俺に無断でメールを見せていたのだ。

裏切られた、ハメられたという悔しさと悲しみで一杯になった。

俺は助けてくれの一言も言っていなかった。見せるなら俺に許可を取るのが筋であろう。

マクドナルドで CR の Lin●a Tunks(仮名)に色々質問された。何でも話していいと言われた。

ところが Lin●a Tunks(仮名)は俺の発言を録音していたのだ。

さりげなく録音のスイッチを押したのを俺はたまたま見ていた。

俺は内緒で録音するその行為に憤慨した。一切喋らずに筆談だけで会話を進めた。

Lin●a Tunks(仮名)は「You can talk(話していいよ)」と言うが決して話さなかった。

そして必ず善処するよと言い残して帰っていった。そして Lin●a Tunks(仮名)がとった行動とは・・・

卓也が食事を満足に取らせてくれないと言っていると直接ホストファミリーに言ったのである。

もちろんホストマザーは俺にそんなことを言うんじゃないと怒った。

そして9月のある日、俺は風邪を引いて学校を休んでしまった。

食事も満足にもらえず栄養不足に睡眠不足も重なり、抵抗力が落ちたのだろう。

風邪なんてひかない俺が39度の熱を出してしまった。

とりあえず安静にしてベッドに横たわっていた。

突然誰かに揺すられ目が覚める。いつの間にか眠っていたようだ。

だが、そこにはあまり見覚えの無い顔があった。俺の CR の Lin●a Tunks(仮名)だった。

俺はこの人たちがすごい嫌いだった。もちろん向こうも嫌っていただろうが・・・。

彼は今からうちに来てテストを受けて欲しいと言うのだ。意味が分からない。

今、俺がテストを受けられる状態に見えたのだろうか?

風邪で学校を休んでいるから延期して下さい。と頼んだがその甲斐むなしく受け入れられなかった。

半ば無理矢理連れて行かれたが、もちろんそんな状態で受けられるはずも無い。

テストも半分ほど終わったところで力尽きてしまった。

9月の最後の週。ここで大きな出来事が。歴史の先生に呼び出されたのである。

パソコンのクラスで両親が中国人の友達に言われた言葉が頭をよぎる。

「あの先生はアジア系の人間が嫌いだから気をつけろよ」

しかも運の悪いことにその先生は留学生を統括する先生だったのだ。

しかし、俺は何も悪いことはしていない。でもどこか不安だった。

そして先生は口を開いた。

「あなた、学校を変わることになったわ」

え?学校を変える?

頭の中が真っ白になった。あとから聞いた話だが普通1つの学校には多くて留学生5人らしい。

しかし、そこの学校には俺を含めて9人の留学生がいた。

留学生を減らしたかったのかどうか分からない。

だが、その歴史の先生から「明日から学校来なくていいよ」と一言。

その時のにやけた顔は今でもしっかり覚えている。

さらに AY●SA からの連絡もあった。もちろん学校を変える事についてである。まずは理由を聞いた。

俺はなぜ学校を変えるのか理由が見当たらないからである。すると、意外な答えが・・・。

俺の成績がよくないというのだ。

そんなバカな・・・。

アメリカの成績は A, B, C, D, F でつける。C が平均で、A が優秀、F は・・・である。

俺の成績は・・・A+、A+、A、B、B、C、D+ であった。

D+ というのは、真ん中より下だが、この成績でやめさせられるはずが無い。

1学期にしては上出来だったと思う。他の AY●SA 生では、F を3つも4つも取ったという奴がいるのに・・・。

しかも9人の留学生の中でも俺の成績はかなりいい方だった。

9人中2位だったのに、なぜ俺が辞めさせられるのか。

ところが日本の AY●SA に行った情報とは、かなり食い違っていた。

俺の成績が悪く、授業についていけないという内容だった。

否定しても日本の事務局は高校からの報告だから間違いないと言われた。

高校は9人の成績表を持っているのだから間違った情報だと分かっていたはずである。

俺はやはり今回のことは計画的に進められていたのだと思う。

しかも Pre-AY●SA でのクラス分けで、俺は真ん中以上のクラスにいた。

実力不足で Pre-AY●SA の参加を絶対条件とされていた人もいたが俺は違った。

俺より英語のできないヤツなんて山ほどいたのである。

第一、AY●SA の留学生募集の試験を通ったということは、

留学する最低限の実力があるということである。

AY●SA も確かにそう話していた。

もし仮にホストファミリーを変えるとしてもなぜ事前に言わないのか。

もっと前から俺なり日本の家族なりに伝えておくべきである。

「君は実力不足だからがんばりなさい」とか、

「お宅の息子さんは実力不足だから勉強するよう促してください」とか、

伝える方法があった、いや、義務があるのではなかろうか?

こっちは高い金を払って留学してるのに、アメリカに送り出したら知らんぷり。

こんなんでいいのだろうか?

退学後に「学校を辞めさせられました」と報告するだけ。

そんなことバカでもできる。

しかも CR の Lin●a Tunks(仮名)の家で受けたテストも報告されていた。何て卑怯な・・・。

あんな状態で受けさせておいて、実力不足だと報告する。

あんなホストファミリーに割り当てられたことや、学校でのゴタゴタから俺は AY●SA を疑い嫌っていた。

いまだになぜ俺が学校を変わったかは、分からないままである。

弁護士にも相談したが、AY●SA 側が情報を書き換えてしまったら証拠も残らない。

よって裁判などで勝つことは不可能だと言われた。

AY●SA の不可解な言動はさらに続いた。

驚いたことに俺をプログラムから離脱させると言い出した。

プログラムを外れて英語の勉強をしてプログラムに復帰しなければならないらしい。

ESL SCHOOL という英語を母国語としない人たちが英語を勉強する学校である。

留学生は州をまたがってホストチェンジしてはいけないらしいが俺は変わった。

次のステイ先は西海岸のカリフォルニアだった。

生きた英語を身につけようとしている人にとって、ベストな方法とは何か?

それはネイティブの人と一緒に暮らして、耳から英語を学ぶこと。

母国語としない人たちと一緒にいるのはベストではないと思う。

ESL SCHOOL では同じ年代の人ばかりとは限らない。この面でもベストな環境とは思えない。

同じ年代の友達のほうが話題も合うし、そっちの方が英語を身に付けやすい。

AY●SA は英語を学ぶベストな方法からわざと遠ざけているように思う。


結局行くことになってしまった。

だが、ここで問題が持ち上がった。

費用の問題である。

自腹でホストファミリーにステイ料を払い、学費も払わなければならない。

その費用、約100万円。

説明会の時には、ESL SCHOOL に通うことがあるなどとは聞かされていなかった。

しかもその費用を数日以内に払わなければ強制的に帰国させるというのである。

俺の母親は泣きながらシブヤ(仮名)という AY●SA の人に言った。

「数日でそんな大金を一般人には用意できないからもう少し待ってください」

「息子の話と食い違っているのでもう少し詳しく理由を聞かせてください」

ところがシブヤ(仮名)はこう答えた。

「払えないなら帰国させます。どうなさいますか?」

納得のいく説明もせずに、急に入金を要求してくるのだ。

AY●SA は本当に非営利団体なのだろうか?

母は来る日も来る日も AY●SA に電話をしてくれた。

ところが納得のいく説明も、事前に対処しなかったことへの謝罪もない。

ただただシブヤ(仮名)は事務的に入金を要求してくるだけだった。

母は泣く泣く要求された金額を入金してくれ、何とか事なきを得た。

まだまだ書きたいことは山ほどあるが・・・。

興奮気味なので少し落ち着きましょう。

とうとう出発の日。

正直俺は嬉しかった。

こき使われ、食事も満足にできないこの家を出られるから。

でも、米中枢同時多発テロの後に飛行機に乗るのは少し怖かった。

次なるステイ先はカリフォルニアの San Diego(サンディエゴ)。

直行便はないので仕方なく乗り継ぎで。まずは South-Bend から Chicago(シカゴ)へ。

テロにあわないか心配だったが最初の飛行機は9人乗り。

落とそうとしなくても落ちそうな飛行機で風に乗って違う国に行かないか心配だった。

無事 Chicago に到着したが Minnesota(ミネソタ)に向かう飛行機が飛ばない・・・。

テロを恐れたのか何なのか分からないがパイロット居なくなってしまった。

Chicago で9時間待たされてようやく出発。

Minnesota についたのは12時過ぎで San Diego に向かう飛行機はとっくに発っていた。

しかし、泊まるとこなどどこにも無い。

しかもスーツケース2つに、大きなスポーツバッグ、さらにパスポートなどの貴重品もあった。

仕方なく CR の Lin●a Tunks(仮名)に電話して、事情を説明しどこか泊まるところは無いか聞くと・・・

「ホテルは手配できないから自分でどうにかしなさい」

どこまでもいい加減な留学団体である。

仕方なく空港内のベンチで1晩明かすことにした。

と、言ってもたくさんの荷物に貴重品もあるために寝ることはできない。

夜中にマリファナ中毒者に絡まれ、無我夢中で逃げた。

荷物も何もかも置き、貴重品だけを握り締め、空港内の交番へ。

ライフルを持った警官が数人来て、その中毒者を連行してくれた。

これでもし何かあったら AY●SA はどうせつめいするのだろうか?

翌朝、日本に電話してホストファミリーの電話番号を聞きだし、すぐに電話し謝った。

AY●SA はホストファミリーの情報を俺に一切教えてくれなかった。

名前や住所すら知らない人たちの家に向かっているなんて馬鹿な話である。

予想よりはるかに長い旅を終え、ようやく San Diego に到着。

しかし名前すら知らないホストファミリーを見つけられるかかなり心配だった。

あちらこちら探し回っていると俺の名前が書いてある紙が見えた。ようやく発見。

ホストマザーは、あの映画「SPEED」のヒロインのサンドラ・ブロックに似てる人だった。

股下すれすれで切ってあるジーンズにタンクトップでかなりイケイケな感じ。

360度広がる青空、さんさんと降り注ぐ太陽、青い海。

Elkhart とはまったく違った雰囲気だった。まさに自分の中のアメリカのイメージとぴったりだった。

新しい家族は小さい男の子3人兄弟で、すぐに仲良くなれた。

今度こそ!

こうして新たな留学生活が幕を開けた。



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